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セザンヌの楽園 本表紙

セザンヌの楽園

フィリップ・ソレルス 著

五十嵐賢一 訳


原書: Philippe Sollers “Le Paradis de Cezanne” 1996, Editions   Cercle d’ art.
総頁数: 122頁
変形大判、上製
発行年月日: 2002年1月10日
ISBN: 978-4-88303-0895-7
定価: 5800円+税

 

著者紹介

 本書の著者については、本ホームページに掲載されている、本書と同一の著者フィリップ・ソレルスの『ピカソ、ザ・ヒーロー』の項の「著者紹介」欄を参照してください。またその「解説」欄にはソレルスのテクストの在り様の特徴等も記述されており、それは本書の解説の一助ともなるものです。

解説

 本書の解説として、まず、ソレルス自らが本書の紹介のために書いた以下のテクスト(本書表紙カバーの折り返しに掲載されたもの)を紹介しよう。

 

 「19世紀の最後の三分の一世紀に、フランスで、フランス革命よりも本質的な大革命が起こった。この大革命の対象は、一般に思考、発言、知覚、表象、記憶、感覚と呼ばれているものの根源それ自体であった。絵画では、印象派の英雄的な出現(このせいで銀行はいまだに自責の念に駆られ続けている)の彼方で、この革命はひとつの名前をもつ。
すなわち、セザンヌ。 そして、詩では、ランボー。
このふたつの経験が、本書で初めて出会う。ともに排斥と無理解と幻惑と横領と憶測を生んできたふたつの経験が。崇拝というコンクリートの下に自由の森が、テーゼという舗石の下に明証が。おびただしい金銭と「文化的」観光旅行の流れの下にそれを覆い隠そうとしても、真の革命はけっして滅びない。「近代」芸術はショー的なめまぐるしさのなかで消滅してしまうのだろうか? 【サント・ヴィクトワール山】あるいは『イリュミナシオン』はここにある。では、いったいこの色彩による既存の価値の転覆行為はなにを意味するのか? これらの肖像画、これらの風景画、これらの水浴する女たちはどの次元に位置を占めているのか? いまだかつて見たことのないこの空間は、いかなる現存性を告げているのか? セザンヌとは誰か? 彼の時代とはなにか?」

(五十嵐賢一訳)

 

 さて、本ホームページの『ピカソ、ザ・ヒーロー』の「解説」にも述べたことだが、ソレルスの美術的活動が、彼の文学的活動と同じく、彼の全体的な創造活動の一環であるとすれば、彼のいわゆる「ヌーヴォー・ロマン」と称される小説群や、その後の作品群の在り様からして、このセザンヌ論が一般の美術批評とはまるで様相を異にすることは言うまでもない。彼のこのセザンヌ論は、通り一遍の美術評論が行うように、対象の画家の生涯を、逸話や想像も含めて、年代記的に記述したり、あるいは美術史学がするように、対象の画家の技法や、あるいはその画家における前代の影響を厳密に分析して、美術史上に確固として位置付けたりする「客観的な」ものとはまるで違うものとなっている。本書でソレルスが行っているのは、そうしたものから遠く離れた、すぐれて「私的な」あるいは「主観的な」行為である。そしてそれが私的であればあるほど、そのエクリチュールは社会規範的なそれから遠く隔たったもの、言い換えれば、彼の小説群のそれと同じ質になるのはごく当然のことである。そこには一貫したプロット、起承転結的な展開、牽強付会的なライトモティーフのあて方、無理強いされた結論などはいっさい見られない。セザンヌに関わる種々の要素が、事実的なものにしろ想像的なものにしろ、それぞれ確固とした存 在を主張しながら、かといってそれぞれが突出することなく、言ってみればセザンヌの晩年の作品のように、簡素であるが精緻で、また限りなく多義的な綾目として縦横無尽に織りなされている。こうしたエクリチュールが、それを読む者のレクチュールを困難にすることは言うまでもない。しかし、それはまた同時に、それがレクチュールの無上の悦びの源泉になることも事実である。読む者は、ソレルスの指が抜き差しする織り針の進捗に従って、全体的な構図をたえず頭のなかに置きながら、その綾目のひとつひとつを、なにひとつ見逃すことなく、忍耐強く目で追わなければならない。すると最後に、ソレルスが織り上げたセザンヌ像がおのずと浮かび上がってくるように、このエクリチュールはできている。そしてその像は、あたかも晩年のセザンヌの【サント・ヴィクトワール山】のように、あらゆる逸話的物語のコンテクストをはぎ取られた、セザンヌの「現存性」を浮かび上がらせるのである。