既刊書

ピカソ、ザ・ヒーロー 本表紙

ピカソ、ザ・ヒーロー

フィリップ・ソレルス 著

五十嵐賢一 訳


原書: Philippe Sollers, “Picasso,le heros” 1996,Editions  Cercle  d’ art. 
総頁数: 129頁
掲載図版: 大判カラー図版70
変形大判、上製
発行年月日: 2002年5月20日
ISBN: 978-4-88303-089-7
定価: 7800円+税

 

著者紹介

 著者のフリップ・ソレルスが1960年に文芸誌「テルケル」を創刊し、未発掘だった正真正銘の宝のような作家や作品を積極的に世に出して文学シーンを大きく変革しただけでなく、自らもそこに作品を掲載して、いわゆるヌーヴォー・ロマンの作家たちの一翼を担ったことは、あらためて言うまでもあるまい。また、彼の活動はそうした文学創作にとどまらず、文芸批評、宗教的・思想的エッセー、政治論、社会的考察、美術論、音楽論、さらには地誌、史書にいたるまで、いわば作家としてあるいは知識人として、およそ考えうる限りの多岐にわたっていることもまた、つとに知られるところである。そして、これら各分野の仕事がそれぞれ独立的な価値をもつとはいえ、個々に切り離されて存在するものではなく、それらが全体でひとつの統一的な宇宙を、「コスモス・ソレルス」とでもいうべきものを形成していることも、これまた言うまでもない。ちなみに、ソレルスは1936年、フランスはボルドー近郊の生まれである。
 ソレルスのこの広大な宇宙のなかでも、美術的な圏が出現した歴史は比較的古くに遡る。”Les Surprises de Fragonard”(『フラゴナールの思いがけない贈り物』)を上梓したのは1987年のことであり、つづいて1991年には彫刻家ルイス・ケイン論”Louis Cane:sculptures”(『ルイス・ケイン―彫刻』)を出し、1995年には”Le Paradis de Cezanne”(『セザンヌの楽園』)を、翌96年には”Les Passions de Francis Bacon”(『フランシス・ベイコンのパッション』)と、本書”PICASSPO,le heros”(『ピカソ、ザ・ヒーロー』)を世に出している。それ以後もこの分野の活動は継続され、98年にはリュック・フェリーと共著で”Le Sens du beau”(『美しさの意味』)を書いて現代文明の美の期限を探っているし、また、”Francesca Woodman”で女性カメラマン、フランチェスカ・ウッドマンの写真集にテクストをつけたのは、1998年のことである。

解説

 解説として、まず、著者のソレルス自身が本書の紹介のために書いた以下のテクスト(本書のカバーの折り返しに掲載されたもの)をあげよう。

 

 「なぜピカソのヒロイズムを採りあげるのか? 彼はその生前、認められ、たたえられ、賞賛されはしなかっただろうか? いまでも、いたるところに彼の影響が認められはしないだろうか? 彼は、今日、市場でもっとも高値を呼ぶ画家のひとりではないだろうか?まさしくこの見せかけの栄光が、わたしに言わせれば、彼の真の姿を隠してしまっているのである。すなわち、この栄光のせいで、20世紀の成功した稀な革命のひとつである彼の革命が、いついかなる場合にも、どれほど困難で、大胆不敵で、危険なものであったかを推しはかることができなくなっているのである。1907年に、【アヴィニョンの娘たち】の出現を「予期」した者が誰かいただろうか? そしてさらには、1968年以後、彼の最後の爆発的でたけり狂ったようなエロティックな時代を理解した者が誰かいただろうか? ほんのひと握りの愛好家にすぎない。
 実は、ピカソは既成の表現を根こそぎ覆した革命家であり、それが必然的に軋轢を引き起こしたことは言うまでもない。この途方もない冒険は、いまだにあらゆる方面の保守主 義者たちの顔を引きつらせている。ピカソとキュビスム、ピカソと女たち、ピカソと彼の時代の大変動の歴史、ピカソと、あらゆる形の絵画を千里眼的に見直す彼の任侠騎士物語的な痛快無比の筆。本書が、70にもおよぶ彼の傑作の数々を引用しながら融通無碍に語ろうとするのは、この叙事詩である。そして、これら70の傑作の大部分は、ピカソが自らの作品を刊行するために自ら選んだ出版者である、《セルクル・ダール》社によって保存された貴重な図版のなかから選別したものである。」 

(五十嵐賢一訳)

 

 さて、著者のソレルスがヌーヴォー・ロマンに属する作家であってみればその美術論のテクストにも、彼がその文学的創作において文学の在り方を根源的に変革する活動を継続してきたものと同じ意志が貫かれていることは言うまでもない。そこにはおよそ年代記的記述はなく、物語的ストーリーやプロットは存在しない。それは文字通り織り目も綾な織物のように、縦横無尽に、融通無碍に織りなされている。それらの糸を1本1本見極めて、しかもそれぞれを見失うことなく、それを織るソレルスの指のあとに遅れずについていって、最後に彼が織りなそうと意図した全体像に辿り着くのは至難のわざである。しかしこの困難さはまた、言い換えれば彼のテクストを読み解く快楽に結びつくものでもあるわけであり、そうした意味で彼の美術論は、その意味するところを汲み取る悦びとともに、テクストそれ自体を読む悦びをもあたえてくれるようにできているのである。 
 加えて、このピカソ論はさらにそれを超えた特徴をもっている。本書は、ページを繰れば一目瞭然であるように、見開きの右ページのピカソの作品にひとつに対するに、左ページのソレルスのテクストひとつという組み合わせ(ときにはこの左右が逆転することもある)を基本単位として構成されている。そして、ソレルスが自ら語るように、掲載されているピカソの作品は70あまりにおよび、ソレルスのテクストの数もまたほぼそれに見合うものとなっている。読者は本書でピカソの70の傑作を目の当たりにし、そしてソレルスのテクストによってさらにその悦楽を倍増させることになるわけである。これらの各単位間には、時間的なあるいは内容的な連続性があるわけでは必ずしもない。しかも、これらの単位はそれぞれ自己完結性が強い。その結果、同じ作者によるほかの美術論と多少印象が異なって、綾目の錯綜した織物という印象よりは、個々の糸目の個性が際立った、さらに言えば、1枚1枚独立した絵タイルを組み合わせて全体の図像を描き出すモザイク文様のような様相を呈している。読者はその各単位をひとつまたひとつと読み進めて、すべてを読了した際に、作者の描くピカソという対象の全体像が見えてくるというのが本書全体の仕組みであるが、それと同時に、これらの単位はそのどこを、どの順序で開いて、その単位だけを読了しても、それだけで充分楽しみを得られるようにもできている。